冬至
正午、南北に走るこの道を、南に向かって歩いてみる。街路樹よりも少し高いところにある太陽が、視界に入ってきて眩しい。突き当たりは丁字路になっていて、そこには神社がある。鳥居と木々が見えていて、そのあたりは空がひらけている。そこから光が通り、神社から伸びていく道を照らして、道に作られたものと、道を歩くものに影をつくっている。
神社の向こう側は崖になっていて、さらに下っていった先には、川が流れている。ずっと昔、川が流路を変えながら大地を削っていって、崖を作ったらしい。崖の上にあるこの場所なら、これから崖下に高い建物が立ったとしても、景色は変わらないだろう。まだ何もなかった昔は、崖下には河原にあるような草木が広がっていて、ここから川までを一望できたのかもしれない。
建物に囲まれたこの道は、すぐに建物の影ができる。だから、ここに存在するものが影を映す時間は、1日の中では限られている。街路樹、街灯、そして人々。私たちと建物の境界は、いつも見えるわけではない。太陽を背にして北を向けば、それぞれのシルエットが時計の短針のように並んでいる。いずれそれらは重なって、境界がわからなくなる。
太陽からの光が眩しいのは、今日が冬至で、正午に歩いているからだ。頭上の太陽を見ることはなくても、今日は視界の先にある。1年でもっとも低い位置からの光を、南にまっすぐ伸びる道を歩きながら、顔に浴びる。木々の枝は、もう今年の葉をほとんど落とし終えているが、太陽の眩しさを少しだけ遮ってくれている。
視線を落とすと地面に映る、前を歩く人たちが見える。不思議な感じがする。影がやけに長くて、そしてくっきりと見える。ひとりひとりの影が大きくて、そして全体が見えている感じだ。影が長い理由はきっと、影が夕日に伸びる理由と同じだろう。そして、くっきり見えるような気がするのは、正午、影が道と平行になって、影同士が重なりにくいからだ。他の時間帯では、斜めの影は建物に隠れて途切れてしまう。でも今は、長く伸びた私たちが、道の上でそれぞれに動いている。いつもよりシンプルになった道を、南に向かって歩いてみた。